染と織のコト
盤板(ばいた)と呼ばれる表具制作の時の作業台。かつらの木だという。表具師にとっては神聖かつ重要なものだ。北村さんはご自身でこの作業台にかんなをかける。表面は頬ずりしたくなるくらいつるつるの状態にしてある。打刷毛とよばれるもっとも重要な作業を盤板(ばいた)で行う。本紙と裂と合わせ紙を裏面から叩く。叩くというのは文字通り固い刷毛の毛先で紙を真上からたたく。おおよそ4往復する。
それだけで存在感のある出刃包丁、丸包丁。いい砥石を大切に使ってすべて自分で研ぐ。刃には『堺則清別打』とある。別打とはオーダーメイドのことであろうか。
古糊(ふるのり)
打刷毛(うちはけ)
三栖紙(みすがみ)
写真は小麦粉を使って作る糊である。糊の仕込み方はおおむねは同じだが、それぞれの職人によって秘伝もある。北村さんは5年から10年かけて発酵させた糊を使う。
これらを使いこなすことによって何年たっても本紙を甦らせることができる。機械化され、接着剤を使った掛軸も多くなったという。しかし、平安時代の書や桃山時代の絵画が、我々の目や心を潤してくれるのはこうした再生可能な技法が確立されてきたからだ。
現代の絵画も何世紀かのちには子孫たちの大切な宝物になっているにちがいない。そんな未来にも表具という技法が受け継がれていってほしい。
ふるい船の櫂に使われていたという木をそのままを削ったつくった定規。
8尺(役2m40cm)ある。くるいがなく、極めて軽い。使い込まれた道具の風格が漂う。
「親父もだれかかから譲ってもらったもんらしいから、ずいぶん古いもんやろ。」
「かすがい」と呼ばれる技法。この写真の本紙は表はもうぼろぼろであった。裏側から何百という数の「補強紙」をピンセットで配置し貼ってなじませ、見違えるようにきれいによみがえらせる。
古い絵絣の生き生きとした唐獅子を北村さんに腰高の屏風にしてもらった。 小縁(こべり)といわれる本紙の周りに配置された数ミリの裂が唐獅子を引き立てる。縁(ふち)に使われた木の煤けた色がなんとも端正。
豊中・織元の豊中本店の建屋は昭和3年に建てられた日本家屋を数度改築して使っている。畳の間ばかりなので襖(ふすま)や障子も多く、手入れは欠かせない。
半年ほど前にちょっと面白い絵を見つけた。
掛軸にしてもらおうと思い、いつも丁寧に店の面倒を見て頂いている表具師の北村さんにお仕事の話を伺った。
「表具師」というのは、ちょっと乱暴に言えば、紙や布に描かれた絵や書を、丸い棒に巻いて収納できるように糊や裂、紙を使って作りかえる人である。北村さんは掛軸だけでなく店の屏風や襖、障子も見て下っている。
ともかくも「映り」(うつり)が大切だという。
掛軸の仕事というものはまずは本紙(ほんし)がある。これは絹に描かれた絵であったり、和紙に描かれた書であったりする。つまり本紙という主役がしっかりと存在している。その主役である絵や書に布や紙を組み合わせて配置し、糊で接合、強化したりして、美しく作り直すのである。
まずは本紙が映えるかどうか?どのような空間に飾り、どんな時に飾るのか?サイズはどうか? お客の好みは?
お客様から伺うこともあればそういった情報がない場合もある。
「もう、そらすぐにパパっと5,6種類が思い浮かびますね。」
手元には300種類近い裂地がある。軸先の材料や掛軸の形式などを含めれば無数の組み合わせが考えられる。そのなかから5、6種類がすぐに浮かぶという。
「仕事がきれい、というのは僕らからしたら当たり前なんです。いい仕事は、きれいでは十分やないとわたしは思うてます。長いことつこうてもらってもええ映りにせんと。」
素人の私には古代の中国の書やいまにも剥がれてきそうな絵の具の絵画などをくるくるっと巻いてしまうあの「丸い棒状のもの」にできるというのがもう驚異なのだが、技術の話は、腕がある人にとってはそれは当たり前の前提であって、話をするほどのことではないのかもしれない。ではどうやって瞬時にそれらを組み合わせる”眼”を持たれたのだろう。
夜学の高校に通っていたころに家業である表具師として仕事を継ぐと決めた。
「大学に行っている時間はあらへんで。若い時分に身につけんと”もの”にならんからな。」敏腕の職人でならしたお父様からはそう言われた。
親父さんのもとで仕事を始めた二十歳のころ、とあるサークル活動で一緒になった友人がいた。京都の古い寺を訪ねたときのこと、その友人は床の間の前で正座して掛軸をじっとみていたそうだ。
意外なその姿を見て「こんなん観るのすきなん?」と尋ねたところ、拓本をとったり、古いものが好きなのだという。龍谷大の学生だったカンダさんというその友人に、仕事について話などをし、それから京都の寺院や美術館を一緒に訪ねるほど親密になった。
毎月21日には東寺に出かけては一日中、掛軸や器などをカンダさんとお互いの評しながらあるいた。20代30代から60代とずっとそのいい関係が続いたそうだ。
「カンダ君との出会いがなかったら、僕は出不精やしね。美術館やお寺なんかに一人ではいかんかったやろね。時々値切ったりして買ってきてね。カンダ君とあーでもないこーでもないいうんが楽しかったなぁ。彼のおかげやね。」
美術館や古刹の名品ばかりを観てきたのではない。縁日で広げられる、怪しげな骨董。いいものもわるいものも幾千も見てきたことで肥やしになってるに違いない。半ばそれは仕事ではなく友達との遊びであったのだ。遊びというのは本物の楽しさだ。
35年ほど前、北村さんが三十を少し過ぎた頃。 仕事は次々に舞い込んできてとにかく忙しかったそんな時、お父様から話があった。「この先、お前はこの店をどないしたい?」
社屋を大きく建て替え近代的な手法に変え、人を雇って規模を大きくするか?
それとも、今までのように伝統的な技法で1点1点を手作りしていく形でいくか。
3か月ほど悩んだ末の答えを聞いて父は
「よし、せやったら銀行に金は預けへんで。お前が死ぬまで困らんよう、ええ材料と道具だけは手に入れといたる。」
当時から少しずつ紙や刷毛などの表具師にとっては欠かせない道具を作る名人が減っていたそうだ。優れた職人が作った紙や裂などの材料や刷毛、包丁などの消耗品である道具をしっかりと確保しておいたおかげで、今も北村さんはやりたいような仕事ができる。だからこそ、周りから信頼され高い評価を得ているのだろう。
北村さんの話を伺っているとこちらも面白くてついつい時間を忘れてしまう。
魅かれてしまうのはどうしてだろう。
ひとつには仕事のスタイルを変えず、ぶれなかったこと。大量に仕事をこなせばずいぶんなお金になった時代でも昔から変わらないやり方でひとつひとつの作品を後世までも生かすやり方にぶれなかったこと。
そしてもうひとつは、「表具師」という仕事を通じて常に楽しみを広げていく姿勢だ。カンダさんは鬼籍に入られたが、書画や骨董を味わい、俳句を詠む。
そんなスタイルは表具という技を通じて、その「楽しさ」を沢山分けてくれる素敵な生き方のように思う。
ちょっと面白いものを掛軸にしていただいた。
本紙のおおらかな表情に合わせたような大胆な市松の中廻しが気に入っている。
持ち込まれた古い掛軸を丹念に見て、どう甦らせることがふさわしいか判断する。廃業してしまった紙問屋、後継者がいない紙漉きの職人。世の流れからこうなることはわかっていた。だから、仕事をする上で困らないだけの材料は十分に確保してある。自分のできる仕事量は限られている。それ以上はやらない。