染と織のコト
きものや帯を染める技法のひとつに「型染め」と呼ばれるものがある。
文様や色を生地に表現する方法は、生地に絵の具と筆を使って手描きする方法もあり、「手描き友禅」などという表現に対して「型友禅」と呼ばれることも多い。
この「型染め」のきもの、私たちは好きなのである。「型染め」によって染められたきものや帯は他にはない不思議な魅力にあふれているようなのである。
「型染め」というのは文様の型を作ってそれに従って染めるものなので、筆などを使った手描き染めほどの自由さはない。また文様の型を繰り返し使うので、きものなり帯の一つの生地には同じ柄、パターンがいくつも現れる。あるいはその型にも表現できる太さや細かさなどに制限がある。こうした制約に縛られた中で作り出す布は、才能あふれた天才たちが絵筆をふるったものではないかもしれない、また、抜群の色彩感覚を持つクリエーターたちによるものではないかもしれない。が、そこには染め人による自由な表現が少ない中で、若い時分よりたたきこまれ、繰り返し、愚直なまでに正確に繰り返してきた技が宿ってる。
そこにはコンマ数ミリのずれも許されない厳しさがある半面、ある種の遊び、意図をもった「ずらし」、や形状のくずしがあったりする。そんなところにわれわれは染め人の手のぬくもりを感じ、美しさを感じる。一方でそれは技術の未熟さと紙一重でもある。それをいい染め、に見せるのはなにゆえであろうか?
わたしはそれは、染め人が毎日の仕事の中で積み上げてきた少しずつの丁寧さであるように思う。たとえば、少し地味な例だが、型染めは長い板に生地を固定させて染める。すると染める生地の薄い厚いによって、染めた後、その板に染料が微妙に残ることがある。これをきちんと洗浄しておかなければ次に染める反物に影響がでてしまう。この板の洗浄をどれだけきちんとしておくか?
「そんな程度はあたりまえだっ!」ってしかられそうなのだが。
毎日、毎日、積み重ねてきた小さな丁寧さが本当の魅力ある「型染め」を生み出す仕事につながっている、だからこそ他の人がまねしても決して追いつけない。とりわけ我を殺すことも必要とされる「型染め」にはそれを強く感じる。