染と織のコト
車一台がやっと通られる山道を進むと上原さん自らが開墾した桑畑が見えてきた。
11月で落葉しているので、ちょっと分かりづらいのですが、鹿児島では幹は地面から20センチ程の短めに仕立てる。
上原さん自身でユンボウを駆使して開墾した桑畑兼工房兼カフェ。写真左上にカフェ兼工房の建屋がある。
畑の具合を見て回る上原さん。土の具合や害虫には細心の注意が必要だ。
蚕を育てるビニールハウス。このときは蚕は飼っていないが土が白くなっている所に糞をする。これはとなりの畑にまいて貴重な肥料として利用している。なにも無駄にすることがない。
驚くのは一反一反廣瀬さんご自身で砧打ちをされる。しかも、地入れもほかの業者では台無しにしちゃうからとご自分の工房でされる。こうした取り組みが独特のつやになり絹味あふれる地風になる。いいものを作り出す強い責任感を感じずにはおれない。
回転まぶし器とよばれる道具。蚕がのぼっていくと重みで回転し、格子状の部屋に無駄なく蚕が入る仕組みになっている。先人たちの知恵が生かされている。
どんなデザインに生かさるのだろうか。織りを待つ糸たち。
鹿児島空港から半島を下って、2時間ほどだという。
長距離バスの乗客はたったひとりで、一番前に座ったものだから、まるで観光タクシーのような具合で、大きなハンドルを回しながら初老のドライバーとの会話がほとんどとぎれことはなく、指宿についた。
車で迎えに来てくれた上原さんへ、畑に行きましょうとお願いし、10分程で山間の桑畑についた。
上原さんは紬をつくっている。
紬というには少しやわらかな地風、色彩は少し遠慮気味な上品さが美しい裂だ。
その紬を、桑を育てるところから作っている。
大雑把にいってしまうと上原さんは土からきものをつくっている。
多くの人が、日本のあちこちで幅40センチ長さ14メートル弱の裂(布といってもいい)をきものとして作っている。
織って作る、染めてたりもする。しかし、上原さんのように桑から。とうのは極めて珍しい。
どうしてだろう。
なぜそんな大変そうな(じっさい大変であるのだが。)ことまでしているのだろう?
かつて上原さんが織物を織りはじめたころ、どうも自分のイメージしていた感じ=絹味のものが出来なかったそうだ。
自分が織ってみたいのはこれではない。
それで、糸づくりからやってみないと気が済まなくなってしまって。
とまずは愛媛の養蚕農家に住み込みで養蚕を教わったそうだ。
私などは養蚕というとどうしても蚕を育てることが頭に浮かぶが、まずは桑の木の畑からなのだ。
例えば、桑の剪定を仕立方と呼そうだが、長野や群馬とはまた違う。
こちらは台風が頻繁に来ること、害虫であるでるカミキリ虫がおおいことから、幹を長く仕立てない、その土地の特質に合わせたノウハウも大切な絹の国の蓄積だ。
また、養蚕農家が少なくなってしまった今は中古であっても道具のひとつひとつ、農家同士のネットワークも大切な財産だ。
回転まぶし器は徳島で不要になったものがある。と聞くとすぐさま車とフェリーで引き取りにく、道具をつくる技が失われてしまわないうちに。
蚕には重要な時季にはこれでもかというくらい沢山の桑を食べさせないといけな。
温度や湿度の管理、病気も心配だ。朝から晩まで文字通り猫の手も借りたいくらい忙しい時期を過ごす。
それでも上簇するときの美しさは涙が止まらないほどだそうだ。
「朝7時~夜11時くらいまで糸を繰ります。
だいたい1週間で一反分くらいとれます。織るのは妻も上手いです。
結局、今のペースだと、ざっと8割が糸作りです。
ですから糸を買って仕事をすればいまの4倍の反物ができるということになりますね。
それでも、いまようやく自分のやりたいことができているんです。」
本当に根っこからものを作る。大げさでなく自然のあるがままの姿。
生き物とモノに自然に添った生き方。
大地と蚕の恵でこんなにも美しい裂を織る。
上原さんは学校を卒業された後は東京でコンピュータの技術者として次世代のOS開発に携わっていた。
京都の大手企業への転職も決まっていたその時、京都で偶然見かけた求人広告がきっかけできものの世界に足を踏み入れたそうだ。
理知的に自分の求めているものを純粋に追及する姿勢はそんな世界に身をおいていた時代から得たものかもしれない。
時間に追われるようにして指宿を後にバスに乗り込んだ私は、はじめに疑問に感じた、どうし(そんな大変なことまでして、作るの)だろう?が、どうして上原さんのように考える人がいなかったのだろう?と考えてしまっていた。
それほど上原さんの話が、織るきものが、そしてなによりその生き方が魅力的にうつっていたからに違いない。
1生繰り、座繰り糸 染料は蓮、矢車。光を静かに湛え、しなやかな絹味豊かな裂。着る人の美しさを引き出してくれる様だ。
カフェのお玄関。赤い暖簾が映えて、植栽も苔も美しい。